牡丹 青磁鳳凰耳花入 矢筈真の薄板

椿亭は茶花宗遍流
お茶事に活ける花の流派 古流松柳会とか色々な流派がございます。
勉強させられます。
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砧青磁鳳凰耳花入 如泉窯(中国)

本歌 南宋時代南宋時代・13世紀
高33.5cm 口径13.1-13.0cm 
胴径15.5cm 底径13.2cm
五島美術館所蔵 龍泉窯(中国)

私は表千家流 父は皇風煎茶と加賀宝生流 母と妻は武者小路千家流 娘は裏千家 息子は何もせんけ流で
茶事に招待されない限り普段他流のお席に入ることはほとんどないでしょう。
茶道宗遍流の
お点前は、ふくさのさばき方、蓋置と柄杓の扱いなどが違う。
また最後にお道具を拝見に出す際、四方盆の上に、棗、茶杓を乗せる
宗偏流では諸道具はお盆に乗せたまま拝見に回るもの。
また、客の手の組み方は、元々表千家からの分流なので宗偏流では
表千家と同じで左手が上で裏千家は右手が上。
 現在お家元は鎌倉。茶花宗遍や
 
 ※宗遍流派は忠臣蔵とは切っても切り離せない縁がある。
故に12月に桂籠花入を使っても良い
のちほど説明します。

 山田宗偏は寛永4年(1627年)京都東本願寺末の長徳寺に生まれ
名は周学。6歳で父の跡を継いで長徳寺住職となり
小堀遠州に茶を学び18歳の時、宗旦に師事するようになった。
入門後8年の26歳の時に長徳寺を退隠し、洛西鳴滝三宝寺内に茶室を作り
茶の宗匠となった。
この時、宗旦から利休四方釜を賜り
参禅の師である大徳寺翌厳和尚から“四方庵”の額が与えられた。
山田は母の姓で、宗偏の号もこの頃に名乗ったものといわれている

。明暦元年(1655年)宗旦の推挙で三河吉田
(愛知県豊橋)城主小笠原忠知の茶頭となり
この時、宗旦は“不審庵”・“今日庵”の額を与えた
のちに宗旦から学んだ利休の侘び茶を広めた。

宗旦から宗偏には多くの愛蔵の道具が与えられており
愛弟子としてとても大切にされていたことも伺える。


 赤穂浪士の一人の大高源吾が身分を隠して
宗偏流に入門し
吉良邸での茶会の情報を得て、吉良の在宅を確信し
12月14日に討入りを決めた。


 宝永5年 1708年 享年82歳。
著書に「茶道便蒙抄」・「茶道要録」・「利休茶道具絵図」

 宗偏流では12月は特別な月であり
14日には義士茶会を開いて、
四十七義士と吉良公を偲んでいる。

茶会では浅野家の家紋があしらわれた棗
お菓子は蕎麦饅頭(蕎麦は”うつ”ものだから)
宗偏流では12月は太鼓・両国などの銘のお道具や
桂籠など討入りにちなんだお道具が使用される。

 籠は炉の時期には通常使われないが、
14日の吉良邸での茶会では花入に桂籠が使われており
それを吉良の首の代わりに義士が吊るして
行進したとの話が残っている為12月に使う。
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本歌 利休桂籠↑(香雪美術館収蔵)  

 宗偏流でなければ知ることもなかった歴史と背景。
私は表千家流と茶花宗偏流も勉強させて頂いておりますが
  なかなか総て習得するは至難の技。

by tsubakitei | 2018-04-29 13:26 | お花

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